「運がいい、運が悪い」
「こんなところで運を使ってもったいない」
「運は使うほど寄ってくる」
なんて日常茶飯的に「運」という言葉が使われているけど
そもそも「運」の定義がどうも怪しいような気がする。
生まれてから死ぬまでの線上の一点を見て良いとか
悪いとかわからないんじゃないだろうか。
良し悪しを決めるなら生まれてから死ぬまでトータルで
見なきゃ何とも言えないんじゃないだろうか。
いささか宗教的な話になるけどそれを俗的に言うと
家から出かける(世に出る)のに素っ裸(魂のまま)では
まずいので服(肉体)を着て大まかな地図(世の中)を
見ながら右へ行ったり左へ行ったり、また地図には
載っていない上り坂や下り坂を都度選択しながら
家に帰るのが一生ではないかと考えたりする。
上り下りに相当するものが所謂「運」と呼ばれるもの
なんだろうけどどんな道を歩んでも最後は家に帰るのである。
ということは上下は最後に帳尻が合うのではと思う。
合うというか最後に清算するというイメージだろうか。
下りが余っているのか上りが余っているのか。
これは家を出てから帰るまでに自分自身の歩き方に対する
答えであり偶然の産物ではないような気がする。
下りが余っている人は自分が上った時の苦労を棚に上げて
「運が良かった」と思うだろうし
上りが余っている人は自分が下った時の楽さを棚に上げて
「運が悪かった」と思うのだろう。
強いて「運」という言葉を使うとしたら。
さて、門から玄関ドアまでの階段は
どれくらい上っているのか下っているのか。
それが真に解る時は長いお出かけを終え再び家の前に
立った時であるが、家を出てから今までのトータルを
「運が良かった。」と思えるようにすることの延長が
良い帰宅を迎えられる最も有効な準備ではないかと考える。
強いて「運」という言葉を使うとしたら。