昨日物事をおもしろく表現している文章があったので引用したいと思います。
「知的であることは、イコール物識(し)りであるということではない。
知的であることの最低限のマナーは、自己懐疑を持てるかどうかだと私は思う。
自分が考えたこと、自分が思うこと、自分が信じていること、それはひょっとすると、
全く、劇的に、根本的に間違っているのではないかと疑えること。そして自分がものを
知っていると思うこと自体がとんでもない間違いであると気付けること。つまりそれは
ある種の謙虚さということである。
中略
この世の中には懐疑心の対極に位置するような、確信に満ちたさまざまな言説が
あふれていることに、ぜひ、気付いてもらいたい。」」
読み終えて、先日書きかけて没にした日記を思い出し引っ張ってくる。
「うまく書けるように同じ字をずっと書き続けるとだんだんうまく書けたかどうか
わからなくなってくる。更に進めると字が記号の塊にしか見えなくなってくる。
一事が万事(よく使いますが)でなんにでも当てはまる事象である。
このHPも例外ではなく、意気込んで文章を推敲に次ぐ推敲で全然違う文章になってたり
結局元に戻っていたり、文章自体がなくなってたりし紆余曲折の果てに辿り着いたのは
感覚の麻痺
である。
HPが完成した頃には、この文章でうまく伝わっているのだろうか?ってのを通り越して
このHP自体のコンセプトって大丈夫なのか?スタートからまちがってないか?って
ないかってところに来てしまっていた。あれだけ張りきって作り始めたのにだ。
字のように手本があれば感覚が麻痺していてもとりあえず手本通りに写せばなんとか
体裁は保てる。しかしオリジナルを完成させるのに見本はない・・・(未完)」
少し論点は違うのだが引用文の言葉を借りると確信から懐疑への極端な移行というところであろうか・・・
どうやらあまり良くないので結局書きさしで没にしたようだ。
確信に満ちることが知的でないことは引用文より容易に理解できるが懐疑は「持てる」かどうかと
書いてあるところが引用文は良いと思えたのである。
確信の中に懐疑を持ち続け生きている中のいろんなケースでの確信と懐疑のバランスを
見極め続ける。バランスは取れても物事は常に変化している為、取れたと思って安心していると
瞬く間にアンバランスとなる。だから「見極めた」ではなくて「見極め続ける」なのである。
「見極めた」と考えた瞬間が「確信が満ちた」瞬間なのである。
なんかよくわからん文になってしまいましたがとりあえず没の文が使えてよかったですな・・・・・(苦笑)
話が堅い分タイトルで、あえてベタに遊んでみたのですがどうもいただけませんな・・・・・(泣)
本文には全く関係ないですが載せる写真もないしいつも
お世話になっている人なのでここで紹介しておきます・・・・・